囲炉裏端から

主として趣味に関わる様々な話題を、折に触れてエッセイや紀行文の形で自由に書いてゆこうと思っています。過去に書いた文章も適宜載せてゆきたいと考えています。

(あまつさ)へ、家中を圧迫してやまぬ本やレコオドがもともと大量にある。それでは物置にでも何とかと思っても、そこには場所塞ぎな鉄の馬が一匹為すこともなく(これは彼の責任ではなく車検の費用を捻出できぬあの愚か者のせゐなのであるが)飼われてをり、笑止なことには、本とスピーカーの箱(本とスピーカーではない。念の為)とが、広大な空間を占領してゐるのであつた。斯くして、私の部屋は、本とレコオドとカヌー用品の物置と化した。已()んぬるかな。このやうな男を夫とした不運な女は、為すすべもなく寂しいほほゑみを浮かべるだけである。この人には何を言っても無駄だ、明らめるしかない。ききわけのない子供には何を言っても無駄だ。生長するのを待つしかない。といつたところであらうか。さうして、何も知らぬ子供達だけが、父親の新しいおもちゃに感激し、女・子供の悲嘆をよそに、時折唯一人舟出する雄々しい男をおとぎ話の英雄の如くに仰ぎ見る。・・・病膏肓に入るといふわけである。

() 病膏肓―閑話休題

斯くして、最初の本格的な川下りは、着々と準備された。幸ひ、夏休みがある。ここは北海道、日本で一番豊かで大きな、手つかずの自然が残された土地だ。黙ってゐる手はない。天塩川、十勝川、釧路川、尻別川、美々川、余市川、石狩川・・・思ふだに胸がときめく。心は子供である。遠足前夜の幼稚園児である。例によって多額の(と五人家族の長たる私にはある種の後ろめたさを伴って思はれた)金を注ぎ込んで、と言ひたいところだが、本とレコードの買い過ぎで既に注ぎ込む現金とて殆どなくクレジットカードなる現代の魔物にそそのかされて、私は、カヌーウェアとカヌー用品、キャムプ用品とカヌーの本、地図等々を、我ながら呆れるほど買ひ込んだ。もう引き下がるわけには行かぬ、男だ。と思ふと急に気が大きくなり、、性懲りもなくまたぞろ本やカヌー関連用品(と自分勝手に決め込んで)を買ひ込むのであった。気が付いた時には、カヌーの本は十冊以上、カヌー関連の野鳥、地質学、天文学(カヌーと何の関連があるのか?)、更には哲学(ここまでくると牽強付会も甚だしい)、文学・音楽(我乍らこじつけもいい加減にせいと言ひたくなる)等々の書物に至っては何冊買ったか分からぬ、といふ仕儀に立ち至ってゐた。

() 初めての川下り

 昨年の秋、初めてカヌーに乗った私は、唯一度だけの体験でカヌーの面白さに取り憑かれてしまった。その日の、真っ青な空と聳え立つ山々と、緑の木々と、支笏湖の澄み切った水が私を魅了した。今年の春、早速カヌーを買った私は、七月に唯一度きりの正式な講習を受けた。千歳川だった。川に、水に、慣れるための様々な訓練の後、僅か五百メートル位をカヌーの先生や他の受講生と一緒に下った。
 初めての川下り・・・小鳥と魚と草木と水と・・・もう二度と川下りから逃れることはできまい、さう思った。またしても私は、物好きにも、新しい道楽にとらへられてしまったのだ。止むを得まい、いつもさうなのだ。どうしようもない力が俺を引きずってゆくのだ、決して俺のせゐぢゃない・・・・・・愚かな男である。わかつてはゐる。然し、多くの人が愚かだと思ふことを敢て行ふ、といふことの楽しみには、抗し難い、にがい魅力がある。いよいよ莫迦である。つける薬はない。

   

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