囲炉裏端から

主として趣味に関わる様々な話題を、折に触れてエッセイや紀行文の形で自由に書いてゆこうと思っています。過去に書いた文章も適宜載せてゆきたいと考えています。

ふと名案を思ひつく。人間が乗らなければカヌーの喫水線は殆ど水面と同じだ、七月にこの魚道を流された時、障害物は確か二か所位しかなかった。それならば、舟に回したロープをほどいて舟を先に流し、そのロープにつかまって流されて行けばいいのではないか。思ひ切って舟と一緒に流れに身を任せる。見事成功。岸に舟をあげて一休み。ふと見ると、七月にはなかった丸木舟。驚く。一体誰が、何のために、こんな所に…長さ七、八米、幅、高さともに三、四十糎位のまことに見事な舟である。一本の自然木を刳り抜いた素朴にして優雅な芸術品である。自然な曲線、自然な反りが実に美しい。暫し見とれる。

やがて、南長沼用水路取水口に着く。七月の講習はここで落ち込みを身体一つで流される練習で終はった。舟に乗ったままでは越えられぬ。木の骨組みを船体布で覆っただけのこの原始的な舟は、岩や石、コンクリート、鉄などの固く鋭利なものとの接触に極めて弱い。無理は禁物だ。岸に舟を着け下見する。あの時よりもずっと草が繁茂して歩きづらい。ポーテージで迂回することも、ライニングダウンすることも不可能だ。暫くどうすべきか考へる。多少時間がかかっても何とか茂みの中を運搬するか、思ひ切って魚道を舟に乗って漕ぎ下るか、ここで川下りをやめるか・・・ふと名案を思ひつく。

魚の飛び跳ねる音がする、水面に波が立つ。漕ぎ出す。両岸の草木や空を眺めながらゆったりと漕ぎ下る。何も焦る必要はない。自然は逃げはしない。世間の時間は忘れた。この川にゐるのは、少なくともこの川を漕ぎ下ってゐるのは俺一人だ。謂はば、けふのこの自然は、まるごと俺一人のもの、と言ふわけだ。これ以上の贅沢があるだらうか。時折、思ひ出したやうに写真をとる。何となく気に入った風景を写す。然し、要するに、私を取り巻いてゐるのは、空と川と草木の緑と鳥達と・・・どこでもほぼ同じ景色なのだ。それで十分楽しい、心が休まる。途中で一人の釣り人と会ふ。唯軽く会釈をして、静かに川岸近くを漕ぎ抜ける。向ふも会釈を返してくれる。ほつとする。内地の川では、カヌーも釣り人も多いため、なくもがなのトラブルが随分起こってゐると聞く。悲しいことだ。お互の楽しみをお互に尊重しあふといふことが即ちお互の人格を尊重するといふことなのではあるまいか。況やこの大きな自然の中でつまらぬ争ひなど恥づかしい限りではないか。一体、何のために、自然の中に入って、舟を漕いだり、魚を釣ったりしてゐるといふのか。本来、舟を漕いだり、魚を釣ったりすることは第二義的なものであって、本当に大切なことは寧ろ、そのことを通じて「自然を味はひ楽しむ」といふことにこそあるのではないだらうか。少なくとも私にとってはさう思はれてならない。

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