囲炉裏端から

主として趣味に関わる様々な話題を、折に触れてエッセイや紀行文の形で自由に書いてゆこうと思っています。過去に書いた文章も適宜載せてゆきたいと考えています。

 昨日は雨水。ここ札幌でもその名のとほり雨が降りました。旧暦といふのも中々風情があつていいものです。嘗ての旅もやうやく「白河の關」を走り抜け、須賀川へとやつて来ました。

「奧の細道」を行く  -木の舟、鐵の馬  第二部-(13) 


再び激しき日光のなかへ。眩し。現實へと引き戻される。と、突然、子供の聲。「をぢさん、これ買はないかい?」いつの間に、どこから現れたのか、半袖・半ズボンの小學生二人。手には蟲籠。見れば大きな甲蟲。「いや、いらないなあ。」「やすくするから」「いや、いらない。だいたいオートバイで旅行してるんだからどうしようもないんだ。」こんな所に、こんな可愛いあきんどがゐようとは・・・小遣ひにでもするのだらうが、私のやうな物好きな旅人がさう澤山ゐるとも思へぬ。不思議な氣がする。

 

   (八) 須賀川(乙字が瀧)~飯坂(醫王寺)~仙臺  (第三日)

 

 出發十二時過ぎ。道を戻り、南湖公園の湖畔にて晝食。三十分ほど休憩し、出發。ひたすら四號線を北上、須賀川に至る。右折し、乙字が瀧へ向かふ。途中、桃を賣る店あり。一個百五十圓。その場で剥いて食べる。うまし。乙字が瀧に着く(一時半近く)さほど大きくはなけれど、爽やかな風情あり。十分ほどで出發。郡山、二本松、福島と走る。黒塚の岩屋、文知摺石等見たしと思へど、土地の人に道を尋ねたところ、ここからは引き返さねばならず、しかも、臺風のため通行止めの所もあると言ふ。

 第3日「白河の關」の続きです。 私の「巨樹巨木」好きの原点はここにあるのかもしれません。

「奧の細道」を行く  -木の舟、鐵の馬  第二部-(12) 


 木を見ながらゆつくりと歩く。「奧の細道」碑。「心もとなき日數重なるままに、白河の關にかかりて、旅心定まりぬ。・・・」何とも趣の深い、心にしみ入る一句ではある。ここから先は、文字通り「みちのく(道の奥)」なのである・・・現存する最大の俳人の一人、加藤楸邨氏の揮毫なり。(この時は知らなかったが、楸邨氏は、「奥の細道」全行程を辿つてゐる由、流石は楸邨と感嘆久しうしたことであつた。)

 

 と、目の前にそそり立つ大木。樹齢八百年と言はれる杉の巨木である。この八百年の間この木は一體何を見續けて來たのであらうか。せいぜい八十年の壽命しか持ち得ぬ我々の到底思ひ及ばざるところではある。しかし、恐らく、一つだけ確かなことは、丁度三百年前、芭蕉と言ふ名の一人の旅人をこの木が見たといふことだ・・・さうして、その時芭蕉は、一體何をこの木に見たのか。何を思ひ、何を考へたのか・・・暫しこの巨木の前に佇んでゐるうちに、曰く言ひ難い不思議な氣分になる。思へば、私も、芭蕉を見たその同じ木に見てもらふことができたのだ。有り難い。木の命のすばらしさ・・・

 いつしか、肌寒くなつてくる。そして、亭々たる松の大木。人滅び、巨木殘れり。謂はれのある松、櫻の古木、また趣あり。終に誰とも會はなかつた。

 そろそろ旅も終はりに近づいて来ました。先を急ぎます。第3日「白河の關」の続きです。

 

「奧の細道」を行く  -木の舟、鐵の馬  第二部-(11) 

ここもまた蝉時雨、室の八島ほどではなけれども。趣深し。社の森といふ風情なり。日の光も木々に遮られて、ひんやりとするほど涼しい。靜かなり。古びた粗末な神社と幾つかの碑(いしぶみ)・・・先づ、三首の古哥を刻んだ小さな歌碑。眞ん中の一首だけが、辛うじて讀める。(と言ふよりも、暗記してゐるので分かる、と言ふべきか)

 

   たよりあらバいかで都へつげやらむ

   けふしら河のせきはこえぬと    平兼盛

 

   みやこをバ霞とゝもにたちしかど

   あきかぜぞふくしら河の關     能因法師

 

   秋風に草木のつゆをはらハせて

   きミがこゆれバ關守もなし     梶原景季

 

 能因法師の歌、甚く心にしむ。千年前の旅が思はれる。(能因は、永延二年-九百八十八の生まれと言はれる)千年前、この邊りは一體どんな所だつたのだらうか。どんな人が住み、どんな花が咲き、どんな風が吹いてゐたのであらうか・・・心がひたすら遠くへ向かふ。「歌枕」といふ言葉のゆかしさ・・・ここには何もない。何も要らない。ただここが「白河の關」である、と言ふことだけで十分なのだ。

 

 

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