囲炉裏端から

主として趣味に関わる様々な話題を、折に触れてエッセイや紀行文の形で自由に書いてゆこうと思っています。過去に書いた文章も適宜載せてゆきたいと考えています。

やがて、南長沼用水路取水口に着く。七月の講習はここで落ち込みを身体一つで流される練習で終はった。舟に乗ったままでは越えられぬ。木の骨組みを船体布で覆っただけのこの原始的な舟は、岩や石、コンクリート、鉄などの固く鋭利なものとの接触に極めて弱い。無理は禁物だ。岸に舟を着け下見する。あの時よりもずっと草が繁茂して歩きづらい。ポーテージで迂回することも、ライニングダウンすることも不可能だ。暫くどうすべきか考へる。多少時間がかかっても何とか茂みの中を運搬するか、思ひ切って魚道を舟に乗って漕ぎ下るか、ここで川下りをやめるか・・・ふと名案を思ひつく。

魚の飛び跳ねる音がする、水面に波が立つ。漕ぎ出す。両岸の草木や空を眺めながらゆったりと漕ぎ下る。何も焦る必要はない。自然は逃げはしない。世間の時間は忘れた。この川にゐるのは、少なくともこの川を漕ぎ下ってゐるのは俺一人だ。謂はば、けふのこの自然は、まるごと俺一人のもの、と言ふわけだ。これ以上の贅沢があるだらうか。時折、思ひ出したやうに写真をとる。何となく気に入った風景を写す。然し、要するに、私を取り巻いてゐるのは、空と川と草木の緑と鳥達と・・・どこでもほぼ同じ景色なのだ。それで十分楽しい、心が休まる。途中で一人の釣り人と会ふ。唯軽く会釈をして、静かに川岸近くを漕ぎ抜ける。向ふも会釈を返してくれる。ほつとする。内地の川では、カヌーも釣り人も多いため、なくもがなのトラブルが随分起こってゐると聞く。悲しいことだ。お互の楽しみをお互に尊重しあふといふことが即ちお互の人格を尊重するといふことなのではあるまいか。況やこの大きな自然の中でつまらぬ争ひなど恥づかしい限りではないか。一体、何のために、自然の中に入って、舟を漕いだり、魚を釣ったりしてゐるといふのか。本来、舟を漕いだり、魚を釣ったりすることは第二義的なものであって、本当に大切なことは寧ろ、そのことを通じて「自然を味はひ楽しむ」といふことにこそあるのではないだらうか。少なくとも私にとってはさう思はれてならない。

ゆつたりと漕ぎ下る。心がのびやかに,はれやかに解き放たれて行く。烏柵舞橋を越えて間もなく、少し流れの速い右カーブで左岸に流され、パドルで川に張り出した小枝をよけようとしたところ、パドルが枝の二股のところに挟まり、思はず手を離す。パドルが流される。最も初歩的且つ最悪の過ちである。手で舟は漕げぬのだ。咄嗟に、今朝終点の公園で拾ったパドル(ダブルパドルが壊れてシングルになったもの)を、念の為積み込んであった事を思ひ出す。直ちに取り出して漕ぐ。暫く行くとパドルがゆつくりと流れてゐる。拾ふ。安心す。天の佑けか。リヴァースストロークで引き返し、方向転換してから再び流れに入る。もう一度、先程のカーブを漕ぐ。今度はうまく本流に乗って漕ぎ切る。間もなく、左カーブ。かなり大きな淀み。カヌーを止め、服のまま泳いだり、写真を撮ったり、何もせずぼんやりと景色を眺めたり・・・水鳥が飛ぶ。静かである。

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