一昨日の続きです。

 「事実の重さ・・・書簡を読む楽しみ」(2)

 随分前に、西田幾多郎の本は何冊か読んだが、この近代日本を代表する大哲学者の人生がこれほど苦難に満ちたものだとは想像だにしてゐなかつた。さうして、ところどころに差し挟まれる短歌の数々・・・これまた意外であつた。日記と伝記を是非読んでみたい。

 若い頃、特に大学時代、熱心に読んだ小林秀雄。最近、ふとしたことから、全集所収の『ゴッホの手紙』を読んでゐる。或いは再読かもしれない。これは面白いと言ふより寧ろ苦しい。余りにも悲劇的なゴッホの人生が迫って来て苦しい。「人はかうまでして絵を描かねばならないのか・・・かうまでして生きねばならないのか・・・」どうしてもそんなことを思はずにはゐられない。そんな手紙の数々である。小林秀雄による手紙の長い引用と評論とから成ってゐるのであるが、いつの日にか『ゴッホ書簡全集』を読んでみたい。

(注1)  一昨日の文章中に「エリス」と書いたが、それは鴎外の『舞姫』の中での名前であり、正確には「エリスのモデルとなった女性」とでも書くべきであつた。

(注2) 同じく、鴎外と漱石の語学力を比較して書いた部分があつたが、筆者の真意は「留学当初の会話力の違ひ」といふことにあるのであつて、両者の「語学力そのものの比較」にあるのではない。言ふまでもなく、両者の本質的な語学力は、ともに恐るべき高度なものであり、真に驚嘆すべきレヴェルであつたと思はれる。筆者の知る限り、この両者に匹敵する程のレヴェルだつたのは南方熊楠くらゐであらう。