囲炉裏端から

主として趣味に関わる様々な話題を、折に触れてエッセイや紀行文の形で自由に書いてゆこうと思っています。過去に書いた文章も適宜載せてゆきたいと考えています。

2015年12月

 毎朝庭に出て歩くのが習慣になつてゐます。さうして、姫リンゴと白木蓮の木に触り、語り掛けます。この頃、白木蓮を見上げると、早くも花の莟をつけてゐます。「ああ、もう春の準備をしてゐるのか!何といふ自然の不思議さ!偉大さ!」

 
 数日前、ふと窓の外を見ると、雀が二羽電線に止ってゐました。「この冬の最中(さなか)に彼らは一体どうやって生きてゐるんだらう・・・何を食べ、どこで寝てゐるんだらう・・・本当にえらいもんだなあ!それに比べて我々人間は、いや、この俺は一体何をあくせく・・・」さう思ふと、急に自分の小ささが身に沁みてきました。こだわりや小さな悩みごとがどうでもいいものに思はれてきました。

 
 書斎の机の上に、幾つもの小さな石とアンモナイトの化石と磁石がおいてあります。読書に疲れると時々石やアンモナイトを手に取って眺めます。さうすると、不思議と心が軽くなります。爽やかな気分になります。この石やアンモナイトは何億年前のものなのか・・・それを見てゐる、長く生きてもせいぜい百年の我々・・・何とちっぽけな人間といふ生き物・・・このアンモナイトは何億年か前、確かに生きてこの地球のどこかで暮らしてゐたのだ・・・」さう思ふと不思議でななないのです。

 今年も明日で終はり・・・ 本当に早いものです。お互い、来年も健やかでありますやうに!

 昨日は大東流の稽古納めでした。早いもので入門以来もう八年目に入ってゐます。合気とは何か・・・おぼろげながらも少しづつ見えて来たやうな気はしてゐますが、やはり何とも摑み処のない不思議なものだと思ひます。
 力を入れるのではなく、抜くことによって相手に伝はり、相手を制する、目に見えぬ不思議な力・・・体の内部から発する、筋肉の力ではない力・・・今のところ、それを確認できるのは、私に攻撃を仕掛けて来た相手が私の技によつて「崩れて行く」その姿によつてだけです。時にはもどかしいこともありますが、少なくともその力が確かなものとして実感できるその日まで 稽古を続けて行きたいと思ってゐる今日この頃です。
 
クリスマスの日、大東流の兄弟子であり、私の尺八の弟子でもある、アイルランド人の知人からクリスマスカードが届きました。今はアイルランドに住んでゐますが、日本在住の折には6年間一緒に稽古に励んだ大切な友人です。両方に対して非常に熱心な「外人」でした。ある意味では、普通の日本人以上に日本の伝統文化を愛してゐる人でした。自国の文化、特に伝統的な文化を知らずして、真の国際人にはなれないと信じてゐる私にとつて、非常に貴重な示唆的な存在でした。
 現代の日本人は、自国の伝統的な文化を忘れすぎてゐるのではないでせうか。英語が話せることは勿論大切なことだとは思ひますが、それよりも英語で伝へるべき何ものかを持つてゐることの方がより大切なのではないでせうか。例へば、アイルランド人に芭蕉のことを聞かれてなにも答へられないやうでは恥づかしいと思ひます。逆に、もしアイルランド人にイェーツのことを聞いた時に、何も答へられなければ、少なくとも私は失望します。国際的な時代になればなるほど、自国の文化、特に伝統的な文化に対する理解と愛情とは必要不可欠なものだと思ひます。ローカルな地盤のないグローバルは、単なる根無し草なのではないかとさへ思はれることがあります。
 
今年は、アイルランドが生んだ偉大なノーベル賞受賞の詩人イェーツ生誕150年の記念すべき年。彼が久しぶりで日本に帰って来るといふことを聞いて、イェーツ詩集を買ってきてほしいと頼んでおいたところ、実にすばらしい瀟洒な詩集を買って来てくれました。和訳を参考にしながら、少しづつ読んでゐるところです。また、久しぶりで、一緒に大東流と明暗尺八の稽古もしました。何年先になるかわかりませんが、再び彼に会ふ時には、さういった色々な話をしたいものだと楽しみにしてゐます。

 
 
  

 先ほどの文章中、アインシュタインの公式は、
 「E=m×cの二乗」なのですが、「cの二乗」 をうまく書けませんでしたので
 訂正しておきます。 

 数日前に書いた駄文をきつかけに、その後増えた辞書類をリストアップしてみました(下記参照)。我ながら、結構増えてゐたので驚きました。書斎やオーディオルームのみならず、廊下や階段にまではみだした本・・・書斎の机の回りの床に直接置かれた辞書類・・・まだまだ増え続けるのかと思ふと、楽しいやうな、ちよつと怖いやうな複雑な心境です。

 仏教語大辞典(全四巻)、仏教辞典、現代スペイン語辞典、デンマーク語辞典、フィンランド基礎語辞典、日朝小辞典、中日辞典、世界民族言語地図、言語学大辞典第1巻、現代言語学辞典、国語学研究辞典、北海道大百科事典、コンサイス人名事典(日本編、外国編)、コンサイス地名辞典、独和辞典、仏和辞典、和仏辞典、英英辞典(2種類)、THE COCISE OXFORD DICTIONARY、日本史年表、近代日本総合年表、日本文学大辞典(縮約版) 、美術辞典、日本列島大地図館。(独和、仏和は以前とは別のものです。)

私の辞典論-言葉の宇宙を旅する-   (2)  

それゆゑ、一つの言葉、或いは物事に興味を覚えると、時には、時の経つのも忘れて、これら辞(事)典の宇宙を彷徨ふこととなる。次から次へと、言葉は言葉を誘ひ出し、それからそれへと、事は事を導き出す。事は言であり、言は事である。さう思つたことさへある。日本の古典のある言葉を古語辞典(愛用してゐるのは岩波版-あの解説の独創的で面白いこと!)で調べてゐるうちに、いつしか数時間が過ぎ、ふと気付くとクラシック音楽作品名辞典やコンサイス世界年表に辿り着いていたといふこともある。その時の驚きと喜び!辞書好きの至福の時である。辞書狂の独りほほゑむ瞬間である。

 一冊の辞書はひとつの小宇宙である。それは言ひ古された言葉かも知れぬ。しかし、今もなほその言葉さながらに、幾種類もの言の小宇宙を彷徨ひ、事の小宇宙をさすらふ旅には、何冊もの本を読むことに優るとも劣らぬ新鮮な発見があり、知的な喜びを越えた魂の戦きがある。

 宇宙とは何か、といふ問に答へられるものは誰もゐないのかも知れぬ。辞書の説明は、ひとつの解釈であり、仮説に過ぎぬのかも知れぬ。僅か数行でそれを行ふのは不可能であり、不遜でさへあるのかも知れぬ。にも拘らず、人はその試みを決してやめない。アインシュタインが、E=mcという極めて単純で美しい言葉で解釈してみせたやうに、辞書の編(著)者達は、例へば「万物を含むすべての広がり」と言ひ、「時間、空間内に存在する事物の全体」と語る。恐るべき見事さである。確かにさういふ意味である。しかし、果たして本当にさういふものであらうか、さういふことであらうか。言葉はあくまでも言葉であつて、事や物自体ではない。とは言へ、人間は言葉によつてしかものを考へ得ない。少なくとも、言葉は事物の本質を把握する最も有力な手段の一つである。美とは何か、を定義することもまた至難の業であらう。しかし、例へば、「その花は美しかつた」と人は事もなげに言ふ。彼の辞書ではその花はさう表現すべきものなのだ。しかし、彼女の辞書では、その花は必ずしも美しくはないかも知れぬ。

 言葉の万能と無力!その蠱惑的なまでの「矛盾の精髄」こそが、辞書に他ならぬ。その光に満ちた闇、言葉の宇宙を、辞書といふ宇宙船に乗つて、今日も私は旅する。時には、言葉の海にたゆたひ、揺られて酩酊しながら・・・  (完)

  ※余り間延びしてもどうかと思ひ、残り全部を一括して載せました。 







 





 

 辞書が大好きです。毎日何回かは必ず辞書をひきます。一番多くひくのは、やはり『岩波 国語辞典』でせうか。中学生になる時、本屋で何も知らずに買ったのがこの辞書の第一版第一刷でした。まだ読書の習慣もなく、何となく一番詳しさうな辞書を選んだのです。緑色の表紙も薄汚れ、背表紙も外れ、もうボロボロになつてはゐますが、未だ手元にあります。捨てることができません。今使ってゐるのは第三版。これとてもう使ひ始めて三十年以上、すつかり手に馴染んで手放すことができません。殆ど体の一部のやうに思はれます。

辞典も事典も私にとつてはなくてはならない大事な友達です。中には「読んでゐる」辞書もあります。現在読んでゐるのは『宮澤賢治語彙事典』です。この辞書を調べながら、読みながら、『宮澤賢治全集』を少しづつ読むのがここ数年の大きな楽しみの一つです。本当に色々な発見があり、楽しいことこの上もありません。

 もう一冊よく読むのが『クラシック音楽作品名事典』です。作曲家の作った曲を、曲種ごとにひたすら並べただけの事典ですが、これまた新発見の宝庫です。クラシック音楽を聴き始めてから、半世紀近く、この頃では初めて聴く曲は大分減ってきましたが、それでも ラジオなどで偶然クラシック音楽が流れてゐると未知の曲があります。「ああ、この作曲家にこんな曲があつたのか」と驚かされます。そんな時はこの事典の出番です。これまた手放すことのできない大事な伴侶です。 

 この他にも、数へたことはありませんが、各種の辞典、事典が多分百冊くらゐはあると思ひます。今まで学習した十数か国語の辞書だけでも、二三十冊はあるでせう。その話はまたそのうちにしたいと考へてゐますが、二十年くらゐ前に、ある出版社の「私の辞典論」といふ企画に応募して、見事に落選した原稿が残ってゐましたので、ここに載せておきます。長いので、何回かに分載することにします。

  私の辞典論-言葉の宇宙を旅する-   (1)    

 

 最初に買つたまともな辞書は、「岩波国語辞典」(第一版第一刷)であつた。昭和四十年、中学一年の時のことである。学校の近くの小さな本屋で、活字が小さくて、何となく高級さう(難しさう)な辞書を選んだのであつた。以後三年間、この辞書は、殆ど新品のままであつた。高校に入り、本格的に文学と語学に目覚めた私は、突如として辞書の虜になつた。そこには、一つの小宇宙があつた。言葉を一つ知るたびに、心の宇宙が広がつていくことを実感した。本文はもちろんのこと、▽印以下の補足や漢字母項目のあの面白さ!辞書を読むことのあの楽しさ!言葉の自己増殖!時恰も、日本の古典や漢文に深く心を動かされてゐた私は、この辞書の漢字母項目で旧漢字を覚え、自ら旧漢字、旧かなづかひで文章を書きさへもした。鴎外、嗽石は勿論、芭蕉や紫式部、更には赤人や家持までもが一挙に身近に感じられるやうになった。言葉を獲得し、それによつて考へ、物思ひ、表現することの何物にも代へ難い喜び!それを助けてくれる辞書の何といふ有難さ!いつの間にか、岩波国語辞典は、表紙が取れ、綴ぢ紐も外れてしまつてゐた。今は第三版を使つてゐるが、この最初の辞書は、大事な宝物として今もなほ私の手元にある。

 この辞書によつて、言葉の面白さを知つた私は、言葉の宇宙へと旅立つていつた。言葉のビッグバン!次々と増えていく辞書達。先ず、高校二年の時、大言海と大日本国語辞典次で、英和中辞典(その秋、英検二級合格)、仏和中辞典(仏語の独習開始)、大学入学後、新伊和中辞典(同上)、羅和辞典(同上)、独和辞典(同上)、就職と同時に、大漢和辞典(大修館、全十三巻)、後、広辞苑(第二版補訂版)、科学用語語源辞典(ギリシャ語編)、同上(ラテン語編)、新英和大辞典、日本国語大辞典(小学館、全二十巻)、日本古典文学大辞典、日本近代文学大辞典、日本文学小辞典、世界文学小辞典、日本人名大辞典(平凡社、全七巻)、広漢和辞典(大修館、全四巻)、国語大辞典等々と、大型・中型の辞書だけでも留まるところを知らぬほどである。その他、小型の国語、漢和、英和辞典がそれぞれ五、六冊ずつ、更には、クラシック音楽作品名辞典を始めとする各種の辞(事)典が 二十数冊・・・私の旅の道連れである
















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