囲炉裏端から

主として趣味に関わる様々な話題を、折に触れてエッセイや紀行文の形で自由に書いてゆこうと思っています。過去に書いた文章も適宜載せてゆきたいと考えています。

2015年12月

 寒さがますます募って来てゐます。師走ももう半ば、いよいよ年の瀬に向かって、何となく気ぜわしい今日この頃です。
 
 今日は、暫く放っておいたエスペラント語の勉強をしました。今年は何とかエスペラント語の基礎・基本を身に着けようと考へてゐたのですが、他の趣味と仕事にかまけて、つい怠けてしまひました。反省頻りです。毎年年末が近づくと「反省」ばかりで、「これではいけない。来年こそは・・・」、と思ふのですが、凡人の悲しさ、中々その反省を生かしきれません。

 思へば、一日、一週間、一月、一年といった区切りがあるのは本当にありがたいことで、もしかういふ区切りがなければ、我々の生活は誠に締まりのない、無秩序なものになつてしまふのではないでせうか。しかし、一方では、余りにも時間に囚はれ、縛られるのも考へものです。そのバランスをどうとってゆくのか・・・自分の人間性と相談しながら、周りの人々との調和を図りつつ、やつて行くしかないやうな気がします。言ふは易く行ふは難きことだとは思ふのですが・・・ 


「いろりばたから」では、他のどこにも属さないやうな話題、あるいは逆に他の幾つかに関はるやうな話題を取り上げて行きたいと思ってゐます。自己紹介を兼ねた私の駄文も今日でほぼ一巡した気がします。その他の話題としては、少林寺拳法や民族音楽、語学にまつはる話 くらゐでせうか・・・それらについても追々書いて行きたいと考へてゐますので、今後ともよろしくお願ひします。





 

 自然の中で、のんびりとゆつたりと過ごすのが好きです。夏は近くの森林公園へ散歩に出かけたり、バイクで巨樹・巨木を見に行ったり、借りた畑で野菜を育てたりしてゐます。公園までは車で行って公園内を歩いたり、自転車で行ってそのまま自転車で回ったり、例によって臨機応変、気儘なものです。ただ、どちらの場合も双眼鏡を必ず持って行って、小鳥の囀りが聞こえて来たら足を止めて、バードウォッチングをします。健康のために歩いてゐると言へば確かにさうなのですが、私の場合は、どちらかと言ふと、「自然に少しでも近づいてゐたい、自然と一緒にゐたい」といふ気持ちの方が強いと思ひます。四季折々の 花が咲いてゐたら、勿論立ち止まって暫し眺めたり、時には写真を撮ったりしてゐます。冬は主に歩くスキーです。小鳥とも花とも出会へないのは寂しいですが、これもまた自然の姿だと思ひます。四季のはっきりしてゐる日本に生まれたことを幸せだと思ってゐます。

 バイクでのツーリングの際には、できるだけ巨樹・巨木を見るやうにしてゐます。毎年見に行つてすつかり馴染みになつた木もあります。滝も好きで、巨樹・巨木がコースにない場合には滝を見るやうにしてゐます。どちらも見られるコースが最高なのですが、中々さううまくは行きません。地図を見ながらさういふコースを組み立てるのがまたツーリングの楽しみでもあるのです。

 二年前から、自宅の割と近くにおよそ一反(三百坪)ほどの畑を借りて一人で野菜を作ってゐます。所謂「自然農法」といふものを目指してゐるのですが、中々難しいものです。一年目は、実験的に半分は有機農法的なやり方で、残り半分は自然農法的ななやり方で育ててみました。いづれも、三十種類ほどの野菜の種を蒔いたのですが、有機農法的なやり方の方は一応畝を切つて別々に種を蒔き、有機肥料も水も時々やりました。自然農法的ななやり方の方は、三十種類ほどの野菜の種にクローバーの種を混ぜて、畑全体にばら蒔きました。その後は、水も肥料も一切やらず、雑草も全く抜きませんでした。勿論農薬などもかけません。要するに、種を蒔いただけです。
 結果は、大根以外の野菜は途中で枯れました。畑全面が一面の雑草が原、殆ど原野に戻ってをり、流石に呆然としました。しかし、どちらの畑でも、大根だけは育ちました。但し、大きさはまちまちで、長さが十数センチのミニ大根から五十数センチのビッグ大根まで、文字どほり千差万別でした。二十本ほどとれた五十数センチのビッグ大根は、自然農法的ななやり方の畑にしか育ってをらず、不思議な気がしました。「何もしなくてもちやんとここまで育つのか」と感動しました。 自然の偉大さに感動しました‼因みに、最大の大根の回りには雑草が全く生えてをらず、まさしく「畑の主」王者の風格が漂ってゐました。二年目以降の話はまた別の機会に譲りたいと思ひます。






   




 

 一般に古いものが好きです。謂はば「原点主義」と言ふか「源流主義」と言ふか、何かさういふものが体の中にあるやうです。さういふ血が生まれながらに流れてゐるやうです。そのことを初めて意識したのは高校生の頃だつたと思ひます。高校一年の時、偶々同じ高校の定時制の国語の先生が1クラスだけ、我々全日制のクラスに教へに来てをられました。個人的にもお付き合ひさせていただいてをりましたが、数年前に亡くなられました。実にすばらしい尊敬すべき先生でした。その先生の一言が私に「旧漢字、旧仮名遣ひ」を使ひ始めるきつかけを与へてくれたのです。「個人的な文章については、旧漢字、旧仮名遣ひを使ふことは一向に構はないのです」といふさりげない一言が。「ああ、さうだつたのか。それぢやあ、早速さうしよう。」古典に初めて接した中学生の頃から旧漢字、旧仮名遣ひに興味をもってゐた私は、多分その言葉を聞いたその日から旧漢字、旧仮名遣ひで文章を書き始めたのではないかと思ってゐます。以来数十年・・・この頃、時々思ふことがあります。「現在、旧漢字、旧仮名遣ひで文章を書いてゐる日本人は一体どれくらゐゐるのだらうか」と。どこかに統計でもあればおもしろいと思ふのですが、どなたかご存じありませんか。

 現在、大東流といふ古武道を稽古してゐます。合気道の源流となつた古い武術です。「呼吸と姿勢」、「型稽古」を重視する一種不思議な武術です。まだ十年にも満たない稽古年数ですので、正直「合気」とはどういふものなのかよくわかりませんが、どこかで「日本の伝統的な考へ方、体の使ひ方」と繋がってゐるのではないかと思ってゐます。いづれまた、大東流合気柔術についてはじつくりと考へてみたいと思ってゐます。

 また、私が日々吹き続けてゐる尺八は「明暗尺八」といふ、これまた現在主流となつてゐる「都山流」や「琴古流」、あるいは広く民謡尺八や現代尺八などあらゆる「近代尺八」の源流となつた「古典尺八」の一流派です。仏道修行の一環として虚無僧達が吹いてゐた「本曲」と呼ばれる曲のみを吹く、室町時代から続く最も古い流派です。因みに、虚無僧とは仏教の一派である普化宗の僧侶のことです。これまた、「呼吸と姿勢」を重視し、「畢竟一音」とも「一音成仏」とも言われる境地を求める、ある意味では哲学的、宗教的とも言へる流派です。 
 

 








 

 冬は読書とクラシック音楽の季節・・・書斎で過ごす時間が自づと長くなる今日この頃です。少なくとも一日三時間、長い時は五六時間、書斎で本を読んだり、辞書で調べ物をしたりして過ごしてゐます。寒さは厳しいですが、本好きにとつては「至福の季節」とも言へます。除雪のことを考へると、気が重くなることもありますが、まあ、これも冬の運動不足解消のためと思ひ直して、何とか乗り切ってゆきたいと考へてゐます。
 
 正確に数へたことは未だ一度もありませんが、蔵書は恐らく五千冊くらゐではないかと思ひます。かなり昔、ある出版社のPR雑誌に「本を眺める喜び-書狂宣言-」と題して投稿した雑文が採用になり、掲載されたことがありますが、あの時の思ひは今も変はりありません。 原案が残ってゐましたので、別に掲載しておきます。

 若い頃から「同時に数冊の本を読む」といふ癖があり、未だに直せません。それ以前から既に何冊かの本を並行して読むといふことはありましたが、確か当時読んだ小林秀雄の本の中に、「当時の激しい読書欲は一冊の本を読み終ってから次の本に移るといふやうな悠長なことを許さなかった」といふやうな意味の一文があり、「我が意を得たり」とばかりに「同時並行読み」時代に突入しました。正統派の読書家からは邪道と言はれるのでせうが、多分もう直すことはできないのではないかと思ってゐます。現在は、再読、拾ひ読みの再読も含めて、同時に三十冊くらゐ読んでゐると思ひます。日によって、ある本を一気に読んだり、ほんの僅かづつ読んだり、全く読まない本があつたりと、まことに気儘なものです。

 読書人にはありがちだと思ひますが、辞書が大好きでかなりの量の辞書をもってゐます。書き始めると長くなりさうですので、それはまたそのうち日を改めて書きたいと思ひます。


  本を眺める喜び-書狂宣言-         

 

 最近、実に十六年振りで、本とレコードの借金が同時に無くなつた。私にとつては、快挙である。信じられないことである。しかし、その途端に、体調が悪くなり、風邪で二日も仕事を休んだ。「今の仕事に就いてからの十六年は、まさに本とレコードを買ふために働きつづけた年月であつたのか」と天を仰いで長嘆息したことであつた。その後三日を置かずして、やはり「これではならじ」、と本を二十冊ほど注文して、明日からの仕事に立ち向かふ意欲と気力とを奮ひ立たせたのであつた。

 思へば、昭和五十年代、北海道の東の果ての田舎町に、初めて教師として赴任したとき、私の本は文庫本も含めて五百冊もあつたらうか。然も、その内の百冊は、大学入学祝の筑摩版「現代日本文学全集」であつた。それが、給料が毎月入ることになるや、文字通り爆発的に激増することとなつた。「本が読みたい、本が買ひたい」と言ふ高校・大学時代からの切なる願ひが一挙に爆発したのである。

 そこは酪農の町。国鉄は走つてゐるものの一日上下合せて四本位、バスは町営バスのみ給料には僻地手当てが付いてゐた。すばらしく広大な町(村の時代は日本一の広さ-およそ香川県ほど)であり、人情も濃やかであつた。人口(当時約一万八千人)の五倍の牛がゐると言はれてゐた。その中で、まさしく青年であつた私は、数々の得難い経験をした。生涯忘れ得ぬ町である。しかし、悲しいかな。本屋がなかつた。

 とは言へ、他ならぬこの町が、私の「本狂ひ」の出発の地でもある。初給料を注ぎ込んで先づ買つたのが、長年の夢であつた「大漢和辞典」(全十三巻、大修館書店)であつた。その後も、釧路の本屋で買ひ、本を扱ふ雑貨屋に頼み、出版社へ直接注文し、時折訪問してくる販売員に注文し、実家のある札幌に夏、冬の休みに帰つたときに買ひ込み・・・結局、この町にゐた六年間で、約六百万円分の本を買ったのであつた。住宅だけは、二戸一棟の家に住んでゐたが、三つある内の二つの部屋は殆んど本で埋まつてゐた。給料は、食費を残して殆ど全て、本とレコードになつた。平均すると、一日二食の生活であり、時折事情を知つてゐて食事に呼んでくれる先輩のお蔭で栄養補給をしてゐた。「Y係数」と称して、全収入に占める本とレコード代の割合を、他の若い元気のある教師と競つたりもした。この係数が八十を割るやうな常識人は肩身が狭かつた。

 かくして、疾風怒濤の時代は結婚するまで続いた。現在、本の数は四千冊位だらうか。一度も数へたことがないので、よくは分からない。三度の引つ越しの度毎に、職場の仲間からは、重い本は二度と御免だ、もう二度と彼の手伝ひには行かぬ、その為には、自分の方が先に転勤する、とまで言はれながらも、やはり本を絶え間なく買ひ続けてゐるのである。病膏肓に入る、と言ふべきか。

 人はよく私に聞く。「この内一体何冊の本を読んだのですかと」。私の答はかうである。「さあ、よくは分かりませんが、先づ半分も読んではゐないでせう。或いは四割、ひよつとすると三割といふところでせうか。いづれにしても、一つだけ分かつてゐることは、たとへ百歳まで生きたとしても、恐らくこの本をすべて読むことはできないだらうといふことです。」と。人は驚く。さうして言ふ。「それなのに、まだ本を買ふのですか。」と。然り。そもそも、私にとつては、読めるかどうかが問題なのではなく、読みたいと思ふかどうかが問題なのである。読みたい本は手元に置いておく。いつその時が来るか分からぬから。もしその時が来なければ・・・神のみぞ知る、である。さうなつても、私は少しも後悔しない。何故ならば、自分の本を眺めること自体が既に大きな楽しみであり、慰めだからである。いつの日にか、これらの本を読む日が来るかもしれぬ、と思ふこと自体が即ち喜びなのである。

 私の祕かな誇りは、私の目の前にある何千冊かの本の殆ど全てを、今すぐにでも読みたいと思ひ続けてゐることである。それは、取りも直さず、さういふすばらしい本だけを、私が選び、買つた、と言ふことに他ならぬのであるから。             

これからも、私の本好きは終はりさうにない。       


 

このページのトップヘ