囲炉裏端から

主として趣味に関わる様々な話題を、折に触れてエッセイや紀行文の形で自由に書いてゆこうと思っています。過去に書いた文章も適宜載せてゆきたいと考えています。

2016年10月

【還暦記念ツーリング。本州・四国の旅】(第22回)
さういふ意味では、寧ろ「私は自分の仕事に責任を持てない」と言った方がいいのかもしれぬ。自分がかいたりつくったりしたものでないものに、どうして自分が「責任」を持つことができようか。その板画や倭画、書などは、実は「自分のもの」ではないのだから・・・ 自分はただその大いなるものの手足となって動かされてゐるにすぎないのだから・・・あの人間業とは思へぬやうな猛烈なスピードで板を彫ってゐるのは実は棟方志功ではないのだ。棟方志功に乗り移ったある大いなるものなのだ。それでなければあの超人的な彫りの速さは理解できぬ。

志功に呼ばれ御仏に呼ばれけふの我

母を恋ひ女(をみな)を恋ひていのちあり

 

その後、もう一度、特に心に残った作品を、ゆつたりと、じつくりと眺める、見つめる。やはり誰も来ない。最後まで、贅沢極まりない「貸し切り 棟方志功展」!

 名残は惜しけれど、まだ旅は続く。意を決して作品から離れる。外に出る。日の光が眩しい。

【還暦記念ツーリング。本州・四国の旅】(第21回)
愛シテモアイシキレナイ  

驚イテモオドロキキレナイ

歓ンデモヨロコビキレナイ

悲シンデモカナシミキレナイ

ソレガ板画デス

棟方志功

このやうに言ふ棟方志功にとつて板画とは一体なんであつたのか。凡人たる私には「何かしら人間を超えたある大いなるもののの表現」といつた程度にしかわからない。しかし、その秘密の扉を開く鍵が、謎を解く手がかりが次の言葉なのではなからうか、といふ気はする。

「私は自分の仕事に責任を持たない」 志功

普通に考へれば、これはとんでもない「非常識」な言葉である。一般社会人として許されぬ発言である。しかし、この言葉の真意を私なりに考へてみると、その根底には大乗仏教に「取り憑かれた」異能の天才棟方志功の「無私の精神」が横たはってゐると思はれるのである。

即ち、自分の板画や倭画、書などの全ては、自分がかいたりつくったりしたものではなく、自分を超えた大いなるものが、自分を通してその意思を表現したものに外ならぬ、といふことではなからうか、さう思はれるのである。

【還暦記念ツーリング。本州・四国の旅】(第20回)
  
見残した作品を一通り見る。その後、もう一度、心に残った作品を、ゆつたりと、じつくりと眺める、見つめる。
 誰も来ない。心行くまで、贅沢極まりない「貸し切り 棟方志功展」!

「釈迦十大弟子」。何と言っても圧巻はやはりこれ!巨大な十二枚(十大弟子に文殊菩薩と普賢菩薩が付け加へられてゐる)の大板画!文字どおり圧倒される!「おお!」と叫んだ後、言葉を失ふ。食ひ入るやうに見つめる。「これがさうか・・・これがあの『釈迦十大弟子』か・・・」大迫力の激しさと厳しさ、しかし同時にえも言はれぬやさしさと穏やかさ・・・堪能す。

  
  
いのちあふれいのち湧きここに生き

  みいのちのよろこびきはまりて みいのちのかなしみ湧き出づる

  板と志功一如一体彫らされ画かされ

 

 先日、積丹岬へツーリングに行ってきました。毎年一回は訪れる馴染みの場所、定番コースなのですが、途中に寄ったとある神社で思ひがけぬ「発見」をしました。ここにも毎回必ず寄るので、単に見落としてゐただけなのかもしれませんが、ちょうど『ハリーポッター』を読んでゐた時でしたので、新鮮な驚きを感じました。
 いつものとほり、ここの境内に生えてゐるサイカチの巨木にお参りした後、中に入ると、何とフクロウの石像があるではありませんか!?「えっ、ここにこんなものがあったっけ?」何とも素朴な表情のかはいらしいフクロウに暫し見とれてゐました。何気なく、その左側を見ると、七福神の石像が佇んでゐます。壽老人(あの長い頭からして多分)がまるでダンブルドア校長のやうです。その周りに六人の「不死鳥の騎士団」の面々が・・・さう思ふと、二体の狛犬がまるでドラゴン何かのやうに見えて来て、ここは「ホグワーツ魔法学校日本分校」なのか(笑)と一人微笑んだことでした。
 後志(しりべし)管内の由緒正しい神社ですが、ここのサイカチの巨木は、案内板によると、「北海道ではただ一本の珍しい木であり、大きな実は漢方薬の材料になる」さうです。「誰か昔の魔法薬学の先生」が植えたのでせうか・・・色々と楽しい想像をしてしまひました。

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