囲炉裏端から

主として趣味に関わる様々な話題を、折に触れてエッセイや紀行文の形で自由に書いてゆこうと思っています。過去に書いた文章も適宜載せてゆきたいと考えています。

2017年08月

ゆつたりとした流れが続く。心の中もますますゆつたりとしてくる。これでいい。緑が目にしみる。両岸を見れば緑、前方にも緑、顔を上げれば緑・・・

・・・地球は緑の星だ。さうして、そこに人間が住む。他の無数の生命が生きてゐる。不思議な気がする。この森、この木々がここまで育つには一体どれくらいの時がたってゐるのだらうか・・・何十年、何百年、いや何千年、何万年・・・地質学的に言へば、何十万年、何百万年、否、何億年か・・・自分が限りなく小さな存在に思はれる。

古い丸木橋。昔の人の暮らしを思ふ。この橋も嘗ては実際に使はれてゐたのだらうか。この辺りではどんな生活が営まれてゐたのだらうか。橋桁の回りに小さな渦が巻いてゐる。「もののふのやそうぢがはのあじろぎにいざよふなみのゆくへしらずも」・・・

 ほどなく、内別川との合流点。川とは言っても、僅かに幅二、三米の小川で、危うく見落とすところであつた。川岸に舟をとめ、歩いてふれあひ公園に入る。日本名水百選に選ばれたと言ふ内別川湧水を飲む。うまい。確かに清らかで冷たい水だ。顔を洗ふ。気持がよい。暫く休み、再び漕ぐ。

次第に空が明るくなってくる。自然と「行く河の流れは絶えずして・・・」といふ文が心の中にうかぶ。長明も或いは、実際に宇治川を船で行き来したときにふとこんなことを思ったのではないか。或いはまた、鴨川の流れをじっと見つめ乍らこんな言葉を呟いたのではないか。そんな風に思はれてくる。

 時折、舟を漕ぐ手を休め、流れに任せる。何もない。自然があるだけだ。川が流れ、舟が流れ、時が流れるだけだ。

水あそび・・・浅瀬で顔を洗ったり、泳いだり、景色を眺めたり・・・川床に手をついて立ち上がらうとすると、、割れた硝子瓶で親指を切った。にじみ出て来る血の赤さが自分を現実に引き戻す。これは人間の作った硝子の瓶だ。さうして誰かがこれをここに放り投げたのだ。清らかな川の水で指を洗ひ、暫く傷口を押へてゐると血が止まった。心無い人間の愚かな行ひを責める気さへ起らぬほど、川は静かで美しかった。舟を漕ぎ出す。ゆつたりと景色を眺めながら・・・

それから、近づいて眺めたり、さはつたり、考へたり・・・中を覗き込むと鑿の刃の跡が規則正しく刻み込まれてゐる。それは殆ど、意識的に彫られたと言っていいほどの美しさ、見事さであった。

 後日、新聞記事によって偶然わかったのであるが、この丸木舟は、千歳川と豊平川で今年も行はれたアイヌの人々の儀式、「アシリチェップノミ」(新しい鮭迎への儀式)に使われた由緒正しい船なのであつた。それは、アイヌの人々がカムイチェップ(神の魚)である鮭を迎へるための伝統的な儀式なのださうだ。

このページのトップヘ