囲炉裏端から

主として趣味に関わる様々な話題を、折に触れてエッセイや紀行文の形で自由に書いてゆこうと思っています。過去に書いた文章も適宜載せてゆきたいと考えています。

2017年10月

長い中断を挟みながら、細々と続けて来たこの連載も今日で終はりです。
呆れず、明らめず(笑)読み続けて下さった読者の皆さんに心から感謝いたします。



晴れ、青空、暖かし。暫くぼんやりと景色を眺める。舟が流されぬやうに時々気を配り乍ら。先程の釣人がやって来て話しかける。彼も来年からカヌーを始めると言ふ。近く富良野の金山湖で講習を受けるのださうだカナディアンカヌーに乗ると言ふ。話が弾む。「お互どこかでまた会ふことがあるかもしれませんね。その時は宜しく。」名前も告げずに別れる。本当にどこかでまた会ふかもしれない。同じカヌーに乗る者同士として。しかし、ここで名を告げれば・・・うそになる。そんな気がした。彼もきっとさうおもったことだらう。舟を岸にあげ暫く乾かす。船体布を拭く。彼が去っていった方から若い男女がやつて来た。私と舟とを恥づかしげもなく見てゐた。仲良くしなさいよ、と思はず心の中で呟く。若い時代はさう長くは続かないのだから・・・俺ももう年か。苦笑する。

                                                                                    (完)

目の前に人工の落ち込みが見えて来た。旅の終りも近い。釣り人が川の真ん中あたりに立って糸を垂れてゐる。「すみません、通して下さい。」「ええ、どうぞ。どこから下って来たんですか。」「第一烏柵舞橋からです。」小学生位の釣人が数人ゐる。物珍しさうに私の舟を見てゐる。何度も場所を変へては釣糸を投げ込み、やがてどこかへ行ってしまつた。落ち込みの手前数メートルからリヴァースストロークで一旦上流へ戻す、舟を半回転させてバウ(舳先)を上流に向け、ゆつくりと右舷を左岸に着ける。コンクリートで護岸された(このあたりからそれは始まる)岸へと舟から降りる。地上に立つ。初めての川下りが終はる。丁度一時頃。僅かに正味二時間ほどの川下りではあつたが、私にとってはまさしく川旅、水の旅と言ふ他ない、得難い体験であつた。

 ふと見れば、右岸の深い深い森、心安らぐ緑・・・さうして、首をめぐらせば、左岸には自転車道路、公園、人家・・・愈々、人間たちのもとへと帰つて行かねばならない。心なしか、さびしいやうな、ほつとしたやうな・・・と、さかんに手を振る幼い子供が二人、幼稚園位の兄と乳母車に乗った妹と、恐らくはそのおぢいちやんと。心があたたかくなる。人間も中々いい。手を振り返す。嬉しさうにもっと大きく手を振ってくれる。自然は人をやさしくしてくれるのか。幼い子と、もう一度幼い子に戻らうとするおぢいちやんの美しい笑顔・・・或いは、この私も美しい笑顔を浮かべてゐたかもしれない。それにしても、この兄妹やおぢいちやんとも、もう二度と会へぬのか・・・。

 すっかりご無沙汰してをります。先月16日から十日ほど、本州ツーリングに行って来ました。やうやく疲れと「気候ボケ」(とにかく本州は暑かった!特に和歌山県)
も回復しました。またぼちぼち書いて行きますので、よろしくお願いします。


 ゆつたりとした流れ、緑の草木、愈々美しく澄み切った川の水・・・川底の小石がはつきりと見える。時折、浅瀬がある。空が次第に明るくなって来る。青空・・・太陽が薄い雲の向うに見える。釣人。軽く会釈をして通り過ぎる。川の左岸に人の気配が、人々の生活の匂ひが感じられる。道が見えて来る。家が見えてくる。ふと見上げれば、前方高く鋼鉄とコンクリートの大きな橋・・・文明が否応なく私を迎へ入れようとしてゐる。それは人間の知性の産物だ。それはまた、人間の偉大さの一つの証明でもある。然し、今の私には、それは唯の空しい建造物にしか見えない。「それが一体どうしたと言ふのだ。川岸に生えてゐる一本の小さな草すら、人間は作ることができないのではないのか。この巨大な建造物を作る知性も、例えばこの川を年毎に遡って来る鮭達のあの自然の知恵には到底及ばないのではないのか・・・人間よ、もつと謙虚に、もつと素朴に、もつとすなほに・・・」

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