冬は読書とクラシック音楽の季節・・・書斎で過ごす時間が自づと長くなる今日この頃です。少なくとも一日三時間、長い時は五六時間、書斎で本を読んだり、辞書で調べ物をしたりして過ごしてゐます。寒さは厳しいですが、本好きにとつては「至福の季節」とも言へます。除雪のことを考へると、気が重くなることもありますが、まあ、これも冬の運動不足解消のためと思ひ直して、何とか乗り切ってゆきたいと考へてゐます。
 
 正確に数へたことは未だ一度もありませんが、蔵書は恐らく五千冊くらゐではないかと思ひます。かなり昔、ある出版社のPR雑誌に「本を眺める喜び-書狂宣言-」と題して投稿した雑文が採用になり、掲載されたことがありますが、あの時の思ひは今も変はりありません。 原案が残ってゐましたので、別に掲載しておきます。

 若い頃から「同時に数冊の本を読む」といふ癖があり、未だに直せません。それ以前から既に何冊かの本を並行して読むといふことはありましたが、確か当時読んだ小林秀雄の本の中に、「当時の激しい読書欲は一冊の本を読み終ってから次の本に移るといふやうな悠長なことを許さなかった」といふやうな意味の一文があり、「我が意を得たり」とばかりに「同時並行読み」時代に突入しました。正統派の読書家からは邪道と言はれるのでせうが、多分もう直すことはできないのではないかと思ってゐます。現在は、再読、拾ひ読みの再読も含めて、同時に三十冊くらゐ読んでゐると思ひます。日によって、ある本を一気に読んだり、ほんの僅かづつ読んだり、全く読まない本があつたりと、まことに気儘なものです。

 読書人にはありがちだと思ひますが、辞書が大好きでかなりの量の辞書をもってゐます。書き始めると長くなりさうですので、それはまたそのうち日を改めて書きたいと思ひます。


  本を眺める喜び-書狂宣言-         

 

 最近、実に十六年振りで、本とレコードの借金が同時に無くなつた。私にとつては、快挙である。信じられないことである。しかし、その途端に、体調が悪くなり、風邪で二日も仕事を休んだ。「今の仕事に就いてからの十六年は、まさに本とレコードを買ふために働きつづけた年月であつたのか」と天を仰いで長嘆息したことであつた。その後三日を置かずして、やはり「これではならじ」、と本を二十冊ほど注文して、明日からの仕事に立ち向かふ意欲と気力とを奮ひ立たせたのであつた。

 思へば、昭和五十年代、北海道の東の果ての田舎町に、初めて教師として赴任したとき、私の本は文庫本も含めて五百冊もあつたらうか。然も、その内の百冊は、大学入学祝の筑摩版「現代日本文学全集」であつた。それが、給料が毎月入ることになるや、文字通り爆発的に激増することとなつた。「本が読みたい、本が買ひたい」と言ふ高校・大学時代からの切なる願ひが一挙に爆発したのである。

 そこは酪農の町。国鉄は走つてゐるものの一日上下合せて四本位、バスは町営バスのみ給料には僻地手当てが付いてゐた。すばらしく広大な町(村の時代は日本一の広さ-およそ香川県ほど)であり、人情も濃やかであつた。人口(当時約一万八千人)の五倍の牛がゐると言はれてゐた。その中で、まさしく青年であつた私は、数々の得難い経験をした。生涯忘れ得ぬ町である。しかし、悲しいかな。本屋がなかつた。

 とは言へ、他ならぬこの町が、私の「本狂ひ」の出発の地でもある。初給料を注ぎ込んで先づ買つたのが、長年の夢であつた「大漢和辞典」(全十三巻、大修館書店)であつた。その後も、釧路の本屋で買ひ、本を扱ふ雑貨屋に頼み、出版社へ直接注文し、時折訪問してくる販売員に注文し、実家のある札幌に夏、冬の休みに帰つたときに買ひ込み・・・結局、この町にゐた六年間で、約六百万円分の本を買ったのであつた。住宅だけは、二戸一棟の家に住んでゐたが、三つある内の二つの部屋は殆んど本で埋まつてゐた。給料は、食費を残して殆ど全て、本とレコードになつた。平均すると、一日二食の生活であり、時折事情を知つてゐて食事に呼んでくれる先輩のお蔭で栄養補給をしてゐた。「Y係数」と称して、全収入に占める本とレコード代の割合を、他の若い元気のある教師と競つたりもした。この係数が八十を割るやうな常識人は肩身が狭かつた。

 かくして、疾風怒濤の時代は結婚するまで続いた。現在、本の数は四千冊位だらうか。一度も数へたことがないので、よくは分からない。三度の引つ越しの度毎に、職場の仲間からは、重い本は二度と御免だ、もう二度と彼の手伝ひには行かぬ、その為には、自分の方が先に転勤する、とまで言はれながらも、やはり本を絶え間なく買ひ続けてゐるのである。病膏肓に入る、と言ふべきか。

 人はよく私に聞く。「この内一体何冊の本を読んだのですかと」。私の答はかうである。「さあ、よくは分かりませんが、先づ半分も読んではゐないでせう。或いは四割、ひよつとすると三割といふところでせうか。いづれにしても、一つだけ分かつてゐることは、たとへ百歳まで生きたとしても、恐らくこの本をすべて読むことはできないだらうといふことです。」と。人は驚く。さうして言ふ。「それなのに、まだ本を買ふのですか。」と。然り。そもそも、私にとつては、読めるかどうかが問題なのではなく、読みたいと思ふかどうかが問題なのである。読みたい本は手元に置いておく。いつその時が来るか分からぬから。もしその時が来なければ・・・神のみぞ知る、である。さうなつても、私は少しも後悔しない。何故ならば、自分の本を眺めること自体が既に大きな楽しみであり、慰めだからである。いつの日にか、これらの本を読む日が来るかもしれぬ、と思ふこと自体が即ち喜びなのである。

 私の祕かな誇りは、私の目の前にある何千冊かの本の殆ど全てを、今すぐにでも読みたいと思ひ続けてゐることである。それは、取りも直さず、さういふすばらしい本だけを、私が選び、買つた、と言ふことに他ならぬのであるから。             

これからも、私の本好きは終はりさうにない。